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参考資料

ご覧になるパソコンの設定によっては、神社名・神名の文字の大きさが揃わない場合があります。
JIS第1・2水準以外は文字化けする場合があるので、画像をはめ込んでいるためです。ご了承ください。

引用文中の※〜〜〜 の記述は私(花むらさき)がつけた注です。

1. 参考文献一覧
2. 過去の祭礼日
3. 由来に関する記述
4. 磯出祭の神事の内容
5. 祭の変化
6. 他に見られない記述


1.参考文献一覧

『千葉県千葉郡誌』 1926(T15).2.11 千葉県千葉郡教育会/編 1972(S47).9.15影印
『二宮神社の大祭及起源』 出版年不明 国府正憲/著 千葉県立図書館1957(S32).11.14所蔵 
『三山大祭』 1926(T15).9.20 国府正憲/著
『二宮郷土読本』 1932(S7)頃 ※『二宮郷土読本』の原本の著者は二宮高等小学校早川順雄氏他。文中の最新年は昭和6年であることから、成稿は昭和七年頃と考えられている。由来に関する記述あり。
1973.621復刻 船橋市史談会/発行 
『船橋市史 資料五』所収 1984 船橋市史編さん委員会/編
「下総国二宮神社三山大祭」 1969.3.15 松田章/著 『和洋国文研究』 第7号所収 和洋女子大学國文学会/編
※1967(S42)の七年祭
「特殊神事ノート1 神揃と産屋の祭 千葉県船橋二宮神社」 1974.11.1 西垣晴次/著 『季刊どるめん4』JICC出版局
※1973(S48)年の七年祭の記録。西垣晴次氏は下記4市合同調査のメンバー
『三山の七年祭-二宮神社式年大祭-』記録編 1977.1.1 習志野市教育委員会社会教育課/編 習志野市教育委員会/発行
※1973(S48)年の七年祭の記録。船橋市・習志野市・八千代市・千葉市の教育委員会による合同調査・編集
『三山の七年祭-二宮神社式年大祭-』 1977.1.1 習志野市教育委員会社会教育課/編 習志野市教育委員会/発行
※1973(S48)年の七年祭の記録。船橋市・習志野市・八千代市・千葉市の教育委員会による合同調査・編集。
『下総国千葉郡清地庄本郷素加天王神社』・『素加天王社伝記』などの文書、1937(S12)以降の大祭資料を所収
『わたしたちの郷土  習志野』 1978 習志野市企画調整室広報課/編
『二宮神社記 昭和54年 二宮神社七年祭記念』 1979.10.1 企画執筆責任者 将司正之輔 二宮神社社務所/発行
※将司正之輔氏は1979(S54)年七年祭の祭典委員長
『ならしの風土記』 1980 習志野市/出版
『習志野−その今と昔』 1990.6 習志野市教育委員会/編 大谷貞夫(國學院大學教授)/監修
『船橋の天道念仏−第3次船橋市民俗芸能調査報告−』 1990.3 船橋市教育委員会/出版
『房総の道 東金御成街道』 1991.12.10 本保弘文/著  聚海書林
「三山の七年祭 古和釜地区を中心とした八王子神社の参加形態についての報告」 1993 高田峰夫/著 『船橋市史研究8』船橋市史編さん委員会/編
※1991(H3)年七年祭の記録
『八千代市の歴史 資料編 民俗』 1993.3.31 八千代市史編さん委員会/編 八千代市/発行
『習志野市史 第一巻 通史編』 1995.3.30 習志野市教育委員会/編 習志野市役所/発行
『史談八千代』第22号 1997.10.26 八千代市郷土歴史研究会/発行
『千葉県の歴史 別編 民俗1(総論)』 1999.3.25 千葉県史料研究財団/編 千葉県/発行
『七年まつり 平成9年の記録』 1999.3.31 船橋市郷土資料館/編集・発行 ※1997(H9)年七年祭の記録
『千葉県祭り・行事調査報告書』 2002.3.29 千葉県立大利根博物館/編 千葉県教育委員会/発行
『千葉県の歴史 別編 民俗2(各論)』 2002.3.25 千葉県史料研究財団/編 千葉県/発行
『幕張・子守神社「神主日記」』 2000.4.16 白井千万子/編・述
『日本の神々11』 2000.7 谷川健一/著 白水社
 
『全国神社名鑑』 1977.7.10 三浦譲/編纂・発行 全国神社名鑑刊行会史学センター/発行
『日本民俗事典』 1972.2.15 大塚民俗学会/編纂 弘文堂

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2.過去の祭礼日

◆『三山の七年祭-二宮神社式年大祭-』『八千代市の歴史 資料編 民俗』『七年祭 平成9年の記録』などから

 二宮神社の祭礼は春祭り(1月15日)と秋祭り(10月16日)がありあますが、二宮神社の神輿は丑・未年の七年祭のときの小祭(9月23日)と大祭(11月)のときしか渡御しません。以下は過去の大祭の祭礼日です。記録にあるなかでは2回だけ臨時大祭が行われました。ただし規模は小祭程度のものでした。

1907 明治40 丁未 12月10〜11日
1913 大正 2 癸丑 11月25〜26日
1919 大正 8 己未 11月25〜26日
1925 大正14 乙丑 11月20〜21日
1931 昭和 6 辛未 11月22〜23日
1937 昭和12 丁丑 11月21〜22日
1940 昭和15 11月12日 奉祝紀元二千六百年記念行事の臨時渡御。三山・藤崎・田喜野井の三区で実施されました。
1943 昭和18 癸未 11月21〜22日 この年は「決戦時局下ニ即応スル手段」として「時局ニ鑑ミ神幣ノミヲ以テ行フコト」と決定され、神輿は出ずに神霊渡御となりました。
1946 昭和21 11月15〜16日 憲法発布記念祝典二宮神社神輿渡御。三山・藤崎・田喜野井の三区で実施されました。
1949 昭和24 己丑 11月21〜22日
1955 昭和30 乙未 11月20〜21日
1961 昭和36 辛丑 11月23〜24日
1967 昭和42 丁未 11月3〜4日
1973 昭和48 癸丑 11月3〜4日
1979 昭和54 己未 11月3〜4日
1985 昭和60 乙丑 11月3〜4日
1991 平成 3 辛未 11月3〜4日
1997 平成 9年 丁丑 11月2〜3日
2003 平成15年 癸未 11月2〜3日

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3.由来に関する記述

 七年祭の由来は以下のあたりが出典と思われます。

「下総国千葉郡清地庄本郷素加天王神社」
「素加社伝記」(未見、『幕張・子守神社「神主日記」』、「特殊神事ノート1 神揃と産屋の祭 千葉県船橋二宮神社」に引用有。内容は上記「下総国千葉郡清地庄本郷素加天王神社」と全く同じのため、同一本か?)
「素加天王社伝記」
『千葉県千葉郡誌』
『二宮神社の大祭及起源』
『三山大祭』
『二宮郷土読本』

この他、『幕張町誌』 1916(T5)年にも記載があるそうですが、未見、所在不明。

 一例として「下総国千葉郡清地庄本郷素加天王神社」より引用します。

一、文安二乙酉年、康胤室懐妊、既ニ臨及十一月ニ臨産の気色もなかりし故、康胤甚案じ、素加天王神主平勝胤と宮山神主大進藤原時家と両人ニ安産加持祈祷可致由ニて大願成就後は大祭祀可執行よし也。依之両人協力奉祈願ニ満願之夜ニて両社ノ神等告テ宣、
 素加宮山両社神影重波奇(寄)潔礒辺暫移奉斎可安臨産
神託あり。右之趣屋形ヘ訴けれバ、早々神祭可執行と、同年九月十六日ニ相定、両社の神輿を素加の礒辺ニ奉為神幸祭事無怠慢相勤ける程ニ、不思議なる哉、此夜海中より龍燈揚り素加神社え飛来る。翌十七日七ツ時康胤室安産あり。誠ニ男子誕生す。依之康胤始メ家士皆々大悦無限。両社ノ御加護難有由ニて、領地村々へ触廻り本郷素加の於磯辺ニ安産の賽祭執行ける、右領地の村々より鞍壺(カ)ニ弊帛を建、馬曳揃へ、祈願す。此由を見て平康胤甚悦けり。

4.磯出祭の神事の内容

 ごく一部の人しか見ることのできない神事、磯出祭の模様は気になりますね。そこで具体的記述のあるものを引用します。

◆ 1991(平成3)年の写真

 ※ 習志野ねっとメンバーのホームページが別ウィンドウに開かれます。子安神社の神輿の前に置かれた盥の中に、東に男児、西に女児の両男女が立っている様子が記録されている貴重な写真です。このホームページには1991年七年祭の写真と1997年七年祭の予定表などが掲載されています。

「素加天王社伝記」 (『三山の七年祭』所収)より引用
  御磯出平産神事
 古は霜月十七日の神事也。然に享保十二丁末年九月より七ケ年に一度の祭礼となる。其前八月十三日三山の大明神の神前にて馬加を始め、畑・武石両村共に祭日の良辰を卜定して神楽之神事あり。近頃は九月十六日として、三山・武石・畑・馬加四社の神輿行幸附まつりに地踊狂言抔いたし、三山村入口の芝地に集ひ、依之此所を神事揃といふ。其夜三山・武石・畑村の神輿何レも、馬加の神社に集ひて一宿す。御弓、御太刀、御戈、御榊神馬引並て當社より須加の磯辺に神幸。葉附の竹垣結び三山・武石・畑三社神輿竹垣の中に奉安置、盥手桶柄杓薦席等を敷並て子守平産の祭式あり。
則此夜誕生の御子と申して、三山大明神の神幣當社へ奉納置也。翌十七日武石畑両村祭事当社にて執納、次ニ当村町中を廻り候色々の舞踊興行するものなり。

「神主日記」(『幕張・子守神社「神主日記」所収)より引用

 (天保六年八月十八日)
 同日夜磯出安産神事祭式也當鎮守磯出本社安産神子守大明神御神輿角惣助前尓待請あり子の中刻頃畑村子安大明神出御あり次尓下刻頃二宮大明神武石村三代王神行幸あり右村々より踟囃子の笛太鞁尓て賑か也大須加の磯邊連の竹垣の内へ一同行幸なし奉り暫く安居座て御手桶柄杓盥蓙敷薦を敷て御神酒御飯を奉りて天下泰平五穀成就御地頭所長久氏子繁栄尓して萬民安産なし子孫栄久を祈る安産神事也

『千葉県千葉郡誌』子守神社の項より引用

 然るに後には豊作を伺ひ五年目七年目十年目に當りて、霜月十七日又は九月十六日を祭日と卜定して、磯出安産祭祀を執行しけるに、享保十二丁未年九月十六日如先例馬加の磯邊に葉附の竹垣を結び、馬加三山武石畑等の神輿を安置して盥手桶柄杓を奉り神酒赤飯を備ヘ薦蓙等を敷て安産の祭式執行なり則其祭式の毎度三山大明神の神幣を當社へ納置年舊例之猶今も此の例あり。此の時より七年一度と治定し丑年未年に當りて此達事磯邊出式執行の事。

『三山大祭』より引用

 更に其夜六ヶ村の人々二宮神輿(三山田喜野井藤崎)子安神輿(畑)三代王神輿(武石)子守神輿(馬加)の四神輿は幕張町馬加海岸に葉付の竹垣を方形に結びし式場に参列しタライ柄杓を奉り神酒赤飯を備え蓙を敷き産屋の古式を行う是を磯出祭と云うなり儀式は王朝次第の其れにも似て荘厳典雅拝する人々をして奈良平安時代のアトモスクイヤに浸さしめ漫ろ雅やかなりし其当時を偲ばしむるなり此日二宮神社にては安産のため古来よりの例として神前に備えし柄杓及麻を多数の希望者に分かつなり参詣是等を求めんとする人々或は大祭の式事及神輿神行を拝せんとする人々は近郷近在よりは云も更なり幾十里遠き所よりも続々と参集し更に又正式には非ざれど慣例により県知事内務部長警察部長郡長他顕官多数来賓あり社前より神揃場の間拾丁余り道路の両側には隙間も無く建てられし桟敷も広場も道路も寸隙も無き程群集を以て埋めらるるの盛大さにて其夜馬加海岸にて挙行される磯出式は深更に始るなれど是又群集雑沓を極め安産の護符になすべく儀式に用いし麻及榊の葉なぞ戴んと犇めき合うも物凄きj程なり誰人も此等諸神の霊徳厳かなるに感激せざる者なりきなり誰人も此盛大に驚嘆せざる者なきなりされば往昔より関東第一の大祭と称され来りしも敢て誇称に非ざるは是の大祭を一見せばさこそと首肯され得るなり

◆ 『三山の七年祭』より引用

 子安神社の神輿の周囲はベニヤ板と旗でかこまれ、さらに関係者が取り囲む。神輿の前に盥が置かれる。盥の上に茣蓙が敷かれ、両男女はそのたらいの上に立つ。両男女は蛤を手にして蛤を交換するような仕草をする。服色赤の束帯姿の子安の宮司が神輿の上に置かれた大真榊を取り上げ、神輿正面左側の蕨(※蕨手のこと。神輿の屋根の四隅についている山菜のワラビに似た渦巻状の飾り)になせつけ、大真榊の又状になった基部(晒が巻かれる)を神輿の蕨と接触させる。次に大真榊を神輿表面にもってきて、神輿の階段を一段一段立てて下す。その後、ひと時神輿の前で何やら神事が続けられた。

◆ 「特殊神事ノート1 神揃と産屋の祭 千葉県船橋二宮神社」より引用

 夕刻、二宮神社を出た四社の神輿は幕張にむかい。各社の定められた宿で休む。幕張インターチェンジに近い埋立地に設けられた磯出祭の場所は図示したように竹矢来が組まれ、内には神輿を安置するオツカが四つ、東から三代王、子安、二宮、子守の順につくられている。この矢来の内(矢来の入口の上部には磯出御旅所の字の書かれた提灯が下げられている)への入場者は制限され、入場することほ栄誉とされている.二宮神社関係者でみると入場者は計五〇名で内訳は三山二〇名、藤崎、田喜野井各一五名である。藤崎は一五〇名につさ一五名、田喜野井一六五名につき一五名で、式場への入場が一つの栄誉であることがうかがえる。一四日の午前二時、群集のとりまく矢来の内に子守、二宮、子安、三代王の順に入場する。かつては暗闇のなかで、ウプヤ(産屋)の祭、あるいはユフネ(湯船)の祭と呼ばれた神事が行われ、矢来の内に入った者も神事をうかがうことは出来なかったというが、今回は電灯がつけられた。明るくはなったか、中心の神事がなされる子安の神輿の周囲はベニヤ板と旗でかこまれ、関係者がこれを取組むので神事の具体相を的確に見ることは甚だ困難である。
 入場した神輿は海に面し、つまり南面して安置される。神輿の前にはすべて蛤が供えられる。子守にはその他に新米、赤飯、神酒、二宮に神酒、子安に赤飯、神酒、盥、三代王に赤飯、神酒、手桶が供えられる。『千葉郡誌』によれぱ、かつては蛤をとることをイミガイトリと呼んだらしい。四社の神輿が入場し安置されると、各社の神官がそれぞれの神輿の前で祝詞を奏上する。祝詞が終るや否や二宮の神輿と共にあった榊がぬかれ、榊を手にした男が、神輿の舁棒の上に立ち、枝毎ちぎって投げると、矢来のなかの人びとは競って榊を奪い合い、さらに矢来の外の人びとに投げてやる。榊の奪い合いがなされている間に子安の神輿の前では、別の神事がなされる。子安の神輿には、前の、つまり七年前の大祭当日からその年末までに生まれた男・女各一名の稚児がつき随っている。稚児は前日(三日)の朝から神輿と行を共にしているから睡魔にわそわれている。神輿の前にすえられた盥のうちに東(神輿側から左)に男の稚児、西に女の稚児か坐わらされる。神官の祝詞のあと、前に供えられた蛤が二人の稚児に持たされ、二人の蛤が交換される。この蛤の稚児による交換が、矢来の内で行われ、これまで暗間のうちでなされていたウプヤ或いはユフネの神事なのである。

◆ 『千葉県祭り・行事調査報告書』より引用

 11月3日の満潮時に合わせて子守神社(子守)・二宮神社(夫)・子安神社(妻)・三代王神社(産婆)の順で会場に入場する。各神輿にはタライ・柄杓・米・酒・赤飯・蛤・お櫃・飯台・重箱・ゴザが供えられている。畑の本家筋の井原家で前回の祭礼の年に生まれた男女の子供(リョウトメ)が白張を着た二人にそれぞれ抱きかかえられて入場する。産屋の儀は全て暗闇の中で行うものとされ、会場全ての灯りが消された中でリョウトメが蛤を交換し、儀式を終える。

◆ 『千葉県の歴史 別編 民俗1(総論)』より引用

この場への入場者は限定され、さらにこの中での「産屋」の祭りは、かつては全て暗闇の中での儀礼であった。オツカの各神輿にはハマグリが供えられ、加えて子守りには新米やお神酒など、二宮にはお神酒、子安には盥・お神酒など、三代王には手桶・お神酒などが供えられる。神官の祝詞の後、二宮神社の神輿脇の榊が抜かれて枝が撒かれ、子安のみこしの前では男女二人の稚児によるハマグリ交換が行われる。これは現在も竹矢来で囲まれた暗闇のなかで行われ、秘儀性が保たれている。稚児は前回のオオマチ以後に生まれた子供のなかから選ばれ、二人は盥の中に座ってハマグリ交換を行う。これが「産屋」の祭りであり、盥に入って行うことから「湯船」の祭りとも呼ばれる。

◆ 『千葉県の歴史 別編 民俗2(各論)』より引用

 ここでは幕張の子守神社の『神主日記』により「磯出御祭礼」「磯出安産の祭式」と呼ばれる行事を見ることにする。
 まず、1817(文化14)年の9月16日の記事は、

 七ヶ年に壱度の磯出御祭礼なり、三山村二宮大明神迎えたてまつる式、恒例のごとし、神主、東医寺、両名主は馬に乗って三山の二宮大明神の社地へ囃子で参詣。夜に二宮大明神を幕張の海岸まで先例のごとく遷す、(中略)夜、磯出安産の祭式は先例による。子守大明神、二宮大明神、三代王神、子安大明神の神輿を、幕張の海岸の竹矢来の竹垣の内に導く。手桶、柄杓、盥、神酒、御膳を見越しの前に供える。安産の祭りがなされる。この安産の祭を見ようと多くの人が柄杓を手に集った。神輿に供えられた御供は安産之守として近郷に配られる。安産の儀が終り、神輿は村々に戻った。

 安産の祭は現在でも名前だけで、具体的には記されていない。秘儀とされ、はばかられているからである。矢来を組んだ内部に入れるのは限られた祭の関係者のみであり、照明も落とされ暗黒となる。神輿は海に向かいお塚の上に置かれる。子安神社の前に置かれた盥に男と女の童児が座る。神主の祝詞が始まると、童男と童女に蛤が渡され、互いに蛤を交換する。ここに産屋、湯船と呼ばれる神事の由来が示される。 

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5.祭の変化

◆禊の場所

 袖ケ浦地区が埋め立てられるまでは国道14号線の南側は家一軒で海岸線でした。京葉道路ができてからしばらくも干潟が1kmほどあったのでかろうじて海で禊をすることができました。満潮を待つのですが、遠浅なので胸まで海水に浸かるには1kmも沖に歩いたそうです。下帯も外して全裸で入りました。その頃は見物人も、もちろんカメラを持つ人もなく、恥ずかしいという気持ちも起きなかったそうです。浜に上がると鷺沼の人たちが大きな焚き火を用意してくれていて、そこで冷えた体を温めました。接待をしてくださるヤドも千葉氏の流れを汲む個人が世話したそうです。
 1971(昭和46)年に京葉道路南側も埋め立てられたため、1973(昭和48)の七年祭からは京葉道路のすぐ北に鷺沼船溜があった頃は、その横に樽を置いて禊をし、この近くで接待を受けました。
 その後、船溜も埋め立てられてからは北側のバス通りに近い場所で禊を行い、接待は根神社の社務所を使うようになったそうです。

◆神揃場への集合

 古くは神揃場に九社全てのみこしが一度に集まりましたが、今では順次発着します。
 1955(昭和30)年から神揃場への集合が12:00から13:00に変更となり、献幣の儀が二宮神社拝殿から神揃場で参着次第、と変わりました。このため最後に出る子守神社は三、四時間も待つことから次第に神揃場への参着が遅くなり、黙認されるようになりました。一方14:00には菊田・二宮神社は発御してしまうため、近年は全神輿が揃うことが無くなった一因となりました。最近では三基くらい並ぶのが普通と言われています。1991(平成3年)のときは進行予定が遅れて、一度に六基も並び、非常に珍しがられたそうです。

◆昇殿

 昔は社殿前に神輿を安置していましたが、ある年に比較的小さい神社の神輿が拝殿に乱入したことをきっかけに、各神社の神輿が我も我もと参入することになったといいます。三山側の人々も人手不足で防ぎきれず、1955(昭和30)年の資料からは「黙認」ということになっています。拝殿内の損傷を余儀なくされるので神社としては大変でしょうが、見物する側はワクワクしますね。

◆渡御

 1967(昭和42)年は非常に警察の許可が厳しくなりました。1960年頃から学生運動が展開されてくる時代的背景によるものかと『三山の七年祭』に記載されています。また近年この大祭の継続が危ぶまれるのも、交通事情や伝承不足もさることながら、警察の許可いかんにかかっているとの記載も見えます。この『三山の七年祭』のあとがきには「此れが記録保存をつくる可き最後の機会であるかもしれぬ」とありますが、21世紀を迎えても幸い多少の変化はあるものの祭礼が存続されていることは嬉しいことです。

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6.他に見られない記述

『下総国二宮神社三山大祭』より引用

 なお、当夜(※磯出祭の夜)菊田神社の渡御があり、神之台かんのうだい(鷺沼と久々田の間)の御仮屋(よろづや家接待)に安置。翌朝。当地を通る二宮本社の還御を待つ。菊田神社は二宮本社の「おじ」にあたり、安産の知らせを待つためだともいう。

 他の記録では、役員の一部と金棒は神之台まで出迎えますが、菊田神社の神輿は大祭当日は神揃場から二宮神社へ昇殿したのちは夕方までに菊田神社へ還御 というものです。

『習志野−その今と昔』より引用

 そこで、大祭を丑年・未年の六年ごとに挙行することとして、二宮神社と畑の子安神社、馬加の子守神社、武石の三代王神社、久々田の菊田神社、藤崎の子安神社、実籾の大原大宮神社、大和田の時平神社、高津の高津比神社、古和釜の八王子神社の神輿が、二宮神社に集まり、行列をし、丑・未年生まれの稚児の参列もあり、馬加磯部では安産祈念の神事が行われます。

 藤崎の子安神社には神輿はありません。子供神輿も藤崎を流すだけで、七年祭に二宮神社へ行くことはありません。

『史談八千代 第2号』より引用

成田街道の旧大和田宿は、萱田町と大和田村から成り立っていたので、萱田町と大和田にそれぞれ時平神社がある。祭神は、藤原時平公で、三山の七年祭には長男の役として、神輿は交替で参加する。神輿を出さない方は、屋台を出すのである。

 この『史談八千代』を出している八千代市郷土歴史研究会の会員のによると、この記述は『三山の七年祭』より引用したものだそうですが、地元の方に尋ねてみると「大和田は神輿を持っていない」ので、「交替」というのは『三山の七年祭』の誤りだとの事です。詳細は2004年発行予定の『史談八千代29号』に掲載されるそうです。いつから神輿が無いのか、舁夫の交替は無いのかなど、『三山の七年祭』の記述の検証がされることを期待します。

『三山の七年祭』より引用

時平神社 (八千代市 大和田町及び萱田町この二社は七年交代で神輿を出す。)

 『三山の七年祭』の中でも上記の一箇所のみに記述があるだけで、他にはこの交代制についての言及は見当たりません。参加する神輿が今よりも多かった頃の古い話かもしれませんが、それにしては「七年交替で神輿を出す」と現在形で記録されています。
 1973(昭和48)年は萱田町。1997(平成9)年の神輿等の予定時刻表には「時平神社(萱田町)とあります。そして今回2003(平成15)年も萱田町です。この三回が萱田町であることははっきりしているのですが、それ以外は私(花むらさき)は見つけておりません。
 参考になる資料としては、『三山の七年祭』の縦書き資料編の1961(昭和36)年の献幣使派遣相成度件申請に「千葉郡大和田」、1967(昭和42)年の神揃場鎮座順序のところに「八千代市大和田町」とありますが、萱田町は「大和田町」を冠していた(※)時期もあるだけに微妙なところです。

※ 萱田町時平神社の鎮座地は、明治初年の神社明細書によれば千葉県管下々総国千葉郡萱田町字臺畑、昭和27年の神社明細書によれば千葉県千葉郡大和田町萱田町九百四拾七番地、現在は八千代市萱田町947と表記されます。
 現在の大和田時平神社の鎮座地は、明治初年が千葉県管下々総国千葉郡大和田村字出戸、昭和27年が千葉県千葉郡大和田町大和田七百九拾参番地、現在は八千代市大和田793です。 

 また、『神主日記』の文政十二年九月十六日の項には「畑村大和田村と喧嘩有之互尓御神輿被破彼是騒動致しよつて同夜磯出御祭式延引尓相成申候」とあり、ここでは大和田の神輿が喧嘩したとあります。屋台ではありません。
 神主日記本文中では七年祭以外でも「大和田村」と言う記述はここだけのようですが、天保十四年に行われた第三回印旛沼堀割工事の「印旛沼干拓工事関係図」の絵図面の中に「横戸村大和田村境」「大和田村萱田村境」「萱田町萱田村入会」「萱田村麦丸村境」「大和田村」との記載があります。原図は読み取れる大きさではありませんが、文字が書き込まれていることは確かなようで、白井千万子氏が原図から活字化されたものだと思われます。文政12(1829)年と天保14(1843)年と言う14年の差はあるものの、「大和田村」「萱田村」「萱田町」という三つの認識があったと思われます。となると文政12年に畑村と喧嘩した神輿はやはり「大和田」のものと言うことも推測されます。
 また、大正15(1926)年の国府正憲氏の『三山大祭』にも七年祭に参加する時平神社の所在地を「大和田町大和田」としています。
 これらのことから「大和田には神輿がない」という現在の発言から1973(昭和48)年の「交替」の記述を誤りだと断ずるには、疑問が生じてきます。「交替」を認めるにしても、誤りだというにしても、もう少し検証が必要のようです。

 『日本の神々11』より引用

 大祭終了は未明に近く、斎庭から稚児が退場するころになると、急に供物の奪い合いが演じられ、厳かな祭事はたちまち興奮に包まれる。磯辺に出た二基の夫婦神輿は安産の歓喜に酔歩し、押しあい揉み合いながら海に入る

 ここ三山の七年祭で神輿が実際に海に入ったという記述はここでしか見られませんでした。実際に海に入る神輿は千葉県大原のはだか祭や神奈川県寒川町の浜降祭を私も見ていますが、海に入らずに浜辺に出るだけでも「浜降り」といういう例が多いです。

◆ 『東金御成街道』より引用

 翌十七日の早朝、安産のうちに男の子が生まれ、以後、例年、実施されるようになったが、凶作の年もあったため、享保十二年(1727)から丑、未の年がいつも豊作であるということから、七年ごとに大祭を行うことに改められ、今日まで続いている。

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