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鷺沼 八劔神社 剣のまつり

剣のまつりの写真

 毎年3月1日に鷺沼の八剱神社の剣の祭が行われます。
 天狗の面をつけた者と、2メートルもの剱を持った若者達が太鼓に先導されて、午後2時頃鷺沼の昔神主を勤めた家から神社へ向かい、祈願祭。
 その後長さ2メートルもの剱をかざして「悪事災難逃れるように」と唱えながら家々を回ります。鷺沼町内を回りながら、昔の村境で辻切り(村の中に悪病を入れない呪い)も行われます。
 ミニコミ誌の小さな記事に惹かれて見物に行ってきました。町内を走り抜ける若者達がとても新鮮でした。
 都市近郊にこんな古式豊かな祭が残っているとは知りませんでした。先導役の氏子総代の方や、太鼓を叩く方、神社に集まった人々から興味深い話を伺うこともできました。
 更に後日、鷺沼にお住まいの方にお話を伺ってきました。
 祭当日(2000.3.1)に撮影した写真と共に、ご紹介します。

地図

集合
ねり
祈願祭

辻切り
宿
祭の夜

いわれ
参考文献

次郎左衛門宅に集合

古峰山の掛け軸と天狗面
お祓い

 祭はまず、八剱神社の神主を二代前(昭和24年没)まで勤めていた、屋号:次郎左衛門宅(鷺沼1丁目)に人々が集まるところから始まります。この「次郎左衛門」は鷺沼弁ではジロゼームと発音するのだそうです。

 市役所の方から新しい道を14号に降りてきて、一本千葉よりの路地を北にはいると、すぐに次郎左衛門さんの家です。門のところには注連縄が張られていました。家の中には既に白装束の若者達も集まっています。庭では甘酒も振る舞われていました。

 総代や町会役員、市長等の招待客のご挨拶のあと、御神酒を交わします。中高生は形だけで飲まぬようにと、ご注意がありました。

 神棚の隣に、古峰山の掛け軸と天狗面が掛けられていたので、祭との関係が気になったのですが、天狗の面と一緒に栃木の古峰山へ行ったときに買ってきたもので、剣の祭りには関係ないとのこと。なお、古峯〔こみね〕の講(注) は鷺沼にもあったそうです。

(注) 古峯信仰といって、栃木県鹿沼市の古峰原〔こぶがはら〕にある、古峯神社を中心とする信仰。コブガハラ講・フルミネ講・コミネ講と称して東北から関東地方一帯に代参講が分布する。天狗に関する奇談を伝える。(『日本民俗事典』大塚民俗学会編、弘文堂)

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ねり

天狗 天狗
榊を持つ天狗 太鼓
行列

 行列が出発するのは14:15。行列の行先は八剱神社、鷺沼3丁目です。

 先導役の氏子総代に続いて、太鼓、天狗、神主、剣を携えた若者達の順番で歩きます。その後ろに次郎左衛門宅に招待された人々が続きます。

 天狗は猿田彦様とも言われていますが、次郎左衛門さんはじめ鷺沼の方々は「天狗」と呼んでいます。今年は「ヨキチさんのせがれ」さんが面をつけました。

 天狗は榊の大枝を携えていて、これを氏子達が少しずつ頂きます。子供達はぴょんぴょん飛びついて枝を取ります。ねりが八剱神社に着く頃には、榊はすっかり小枝が無くなってしまいます。

 太鼓は実際に叩きましたが、笛は録音されたテープでした。今七十代の人達の囃子連のうち、笛の人が四十代で亡くなりました。ねりの笛は武石(千葉市)の保存会のところと同じ旋律なので頼むことにしたそうです。毎年頼むのも悪いので、テープにとったのですが、もう十年も同じテープなので伸びてしまって、すっかり変な音だ、と鷺沼の人々は残念がっていました。昔の生で吹く笛の音は、とっても良かったよ、ホントに良かった、と繰り返し話される姿が印象的でした。

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祈願祭

社殿にあがる ミコの舞
ミコの舞 御宝銭

 神社の本殿にねりの人々が入ると、神主さんが祝詞をあげます。この神事の名前はミニコミ誌には「祈願祭」となっていました。

 次に「ミコの舞」が奉納されます。男装束なので巫女と云うより神子でしょうか。舞う人は、今年はねりの時に天狗の面をつけていた「ヨキチさんのせがれ」さんでしたが、このように兼任することは珍しいそうです。

 舞が終わるともう一度祝詞があげられました。

 剣の準備をする若者達の横で、煮物が配られました。「縁起物ですから」と勧められ、おいしく頂きました。

 本殿の横ではお菓子が配られるので子供も大人も行列です。配られたお菓子の袋には、「御宝銭」というものが入っています。中に10円硬貨。包みの表には「鷺沼八剣神社 御宝銭」、○で囲んだ赤字の福という印が捺してあります。包みの折り目を開くと祭りについての説明が書かれています。

----- 印刷物の文面 -----

 鷺沼地区に伝わる奇祭で、今から三百有余年も前から続いています。白装束の八人の若者が、長さ二メートル近くもある鉾を持って、悪事、災難、逃れますようにと言いながら、各氏子の家々を土足で上がり駆け巡る、悪霊、災難を追い払う、神事で、毎年三月一日に行う祭で「剣」として氏子に崇敬されています。

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出発前の若者たち 門口で
家々をまわる 小走りで
玄関から縁側へ 玄関から入る
縁側から出る 縁側から入ることも

 長い鉾を持った若者八名と御神酒・お札を持った若者数名、太鼓、先導役の氏子総代数名が付いて、二手に分かれて鷺沼四百軒の家々を回ります。昔から二手に分かれていたと言います。「悪事災難逃れるように」と大きな声で口々に唱えながら小走りの若者達がお祓いをして行きます。剣のドンドンと言う太鼓の音が春が来たぞと知らせているように感じたそうです。

 ほとんどは門口でお祓いを受けますが、玄関から縁側へござを敷き詰めて、土足のまま中を取り抜けられるようにしているお宅もあります。現在60代の「屋号:川端」さんは、子供の頃白装束の若者の後を追ってドサクサ紛れに土足で駆け抜けるのが楽しみだったとか。のろいと家人に捕まってひっぱたかれる、うまくすり抜けるのが楽しかったそうです。さすがに今はそう言ういたずら小僧さんの姿は見られませんでした。

 青年団、多くは消防団の若者に家の構造、家族構成、年寄り障害者の寝室を確認させる行事で、災害のときの救助活動が迅速に出来ていました、という解説も耳にしました。戦中戦後の記憶では、玄関から入ってすぐ縁側に抜けてしまうことが多かったそうです。玄関から玄関に戻るというようなことはなく、必ず一方通行でした。

 町内を回る若者は、昔は「若者」、徴兵検査くらいの者がなっていました。今年は高校生と中学生で結成されていました。白装束を身につけて小走りに駆け抜ける様子は初々しかったですよ。昨年は40代の「若者」が居たそうです。はじめは照れくさそうに、だんだん大声で「悪事災難逃れるように」と家々を走ってまわります。

 剣の時に一緒に配っているのは「ごしんしゅ」、御神酒〔おみき〕。それと「ごしんまい」、米です。「およね」とも呼ばれています。御神米にする米は、買ってきた米を次郎左衛門宅が頼まれて研いでいました。今年から研ぐのは省略したそうです。どうしてかな、だんだん変わっていくな、と次郎左衛門さん自身が語っていました。

 頂いた御神米は翌朝他の米と混ぜて家族みんなで頂きます。

 御神酒は杯やコップで頂き、当主やおじいさんが飲むそうです。各家をまわっている内に、お酒を補給に帰るのが面倒で、適当に井戸水を足したりするので、飲めたものではなかったこともあったとか。今年は一升瓶を太鼓の車に乗せて、そこから補給していました。

 お払いを受けるとき、ご祝儀を渡します。昔は30銭くらい、今は300円から500円くらいです。

 お払いを受ける人は、昔から誰と決まっていたわけでもなく、そのとき家にいた者が太鼓の音を聞きつけてお盆に杯と祝儀を準備して門口に立ちます。

 十五、六年前は氏子からの祝儀はまとめて納めていたという記憶の方もいらっしゃいます。

 祝儀をたくさん頂けそうな津田沼の商店街のほうまでかけて行くと、遠くからよく来てくれたと祝儀もはずんでくれたといいます。

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辻切り

辻切りの竹 お札 祝詞
祝詞を神妙に聞く 剣で突く 剣で突く

 辻切りは幕張インター近くなど、鷺沼の四方で行います。二手に分かれていたグループも神主さんもそのときは合流し、竹につけたお札に向かって祝詞〔のりと〕を唱え、剣で突きます。悪いものが村内に入ってこないように、と鷺沼でも言い伝えられています。

 その後、また二手に分かれてお払いをして回ります。

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宿

 8人の鉾を持った若者は二手に分かれて回りますが、時刻の頃合いを決めて一緒に「宿」で休みます。宿は上宿(1丁目)・下宿(3丁目)・本郷(2丁目)・大堀込〔おおぼっこめ、おおぼこめ、おおほりごめ〕(4丁目)。宿では食事や酒を出します。各宿で同じような料理になるといけないので、一昨年から連合町会でどこはこんな料理、ここは簡単に、等と指示するようになりました。かっては家々で振舞い酒をしたので、若者はまっすぐ走れなかったとか。

 宿になる家は回り番というか、町会長の家などにお願いしているそうです。30人くらいの人が入るので、近頃のように小さな間仕切りでは入れないので、たいへんとか。

 戦前は宿は志願していたそうです。八剱神社は五穀豊穣・家内安全・そして武運長久の神様です。戦の神様だから、兵隊に引っぱられた子供がいると、無事を願って宿を志願したものだそうです。

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祭の夜

 今でも白装束の若者達は薄着ですからとても寒そうですが、「今年はいいのよ。雨雪のこともあるんだから。それにずーっと走っているからまわりから見るほど寒くはないの。ただ、走る距離は結構あるから、息子がやったとき、運動をしていたにもかかわらず、翌日足がパンパンにはっていたよ。」とお母さん方が話してくれました。今年は暖かくて良いと、門口でお払いの順番を待つお年寄りの皆さんも言っていらっしゃいました。

 こうして夜は九時過ぎまでかかって各家を周り、最後にまた集まって宴会をするそうです。昔から集まった祝儀で若者たちはみんなで食べて飲んで、とやったもんだ、と懐かしそうに話してくれます。今では中高生にもお年玉の2倍くらいのお礼が出るそうです。

 剣の祭よりももっと寒い時期の、正月の三山参りでの似たような話も聞きました。昔は兵隊検査の前の21歳くらいの若者が裸で走って回り、終わると大久保の風呂屋で、水のようにぬるい風呂から徐々に温度を上げて暖まったそうです。沿道にかがり火を焚いて、村の娘の声援を受けて裸で三山まで走るのは若者の晴れ舞台であったようです。剣の祭でも、回る若者達は誇らしげな顔をしていました。

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神主の役、氏子総代の役などなど

 屋号:次郎左衛門宅(鷺沼1丁目)では、八剱神社の神主を二代前(昭和24年没)まで勤めていました。その後は八千代市の高津から来て貰っていたが、今は谷津の丹生〔にぶ〕神社の金子さんに来て貰っています。鷺沼の人は丹生神社をタンジョウさんと呼んでいます。

 氏子総代は8人で、祭りの段取りをします。互選で3年任期、再任を妨げません。次郎左衛門さんも一昨年まで2年間勤めたが、体調を壊し辞めたそうです。神社庁に届けるのは総代の内4人です。

 氏子総代は「剣の祭」の準備の内、総代は注連〔しめ〕を張ったり、剣を持って回るときの誘導をします。四百軒もあるところを回るので、回る順番も難しいそうです。なかなか回ってこないと言う電話もよくかかってくるそうです。今は携帯電話があるのでずいぶんと連絡を取りやすくなったものだ、とのこと。二度別々に取りに来たという記憶の方もいらっしゃいました。

 「屋号:川端」の姑は大堀込〔おおぼっこめ〕の「十左右衛門」という屋号の家から嫁いできたが、そこはいつも回ってくるのが夜中になって待ちくたびれると言っていた、「川端」は八剱神社からすぐ近いので、早い時間に来るのでうらやましがられた、という記憶もありました。

 御神酒や甘酒の接待は町会がします。昔は剣の祭だけではなく、秋の祭にもお神楽〔かぐら〕があったそうです。「次郎左衛門の親爺(生きていれば99歳くらい→明治32年頃の生まれか?)」の代には囃子連の七、八人の仲間がいました。「次郎左衛門の親爺」が狐の面をつけているのを覚えているそうです。他におかめ・ひょっとこも。その後、今70歳くらいの世代にもお神楽のグループがあったが、笛の人は亡くなるし、そんなこんなで囃子も神楽も無くなったそうです。

 10月の根〔ね〕神社の祭には御輿が出ていましたが、今、祭に山車〔だし〕や神楽が無いのは寂しいと鷺沼の方々は仰います。祭りが終わってお酒で勢いがついて、納まっている神輿を担ぎ出して14号を止めてしまって、神輿ごと習志野警察に逮捕されたことがありました。そんな愉快なエピソードのある御輿が無くなったのでは、本当に寂しいことでしょうね。

 昔の神楽では、面白い踊りを舞いながら、ミカンを投げるフリをしたりしました。実際に神楽の後でミカンを投げていたそうです。武石は米を作っているから建前〔たてまえ〕のように小さな餅を投げていたが、ここではミカンだったそうです。今年見ていたら、行列させてお菓子を配っていました。投げると危ないので、行列になったとのこと。

 戦後まもなくは子供は剣の時に一緒について回ると、最後に10円、20円と貰えました。親爺が子供らに、ほらくれるぞと言って、並ばせて配っていました。他に面白いこともなかったしな、と懐かしそうでした。

 「次郎左衛門の親爺」は剣の祭の3月1日にちょうど間にあうようにどぶろくを作っていました。酒が買えない時期だけに酒が楽しみで、早く出来過ぎると酸っぱくなるし、遅いと不味い。今のように保温する機械なんか無いから、裸電球を低くぶら下げて温度を上げて早く発酵が進むように工夫したりしていたそうです。

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剣の祭のいわれ

 神主の家だった次郎左衛門の家でも剣の祭は何時から始まったかは聞いていないそうです。今の鉾は平成元年に作り直したものですが、その前の鉾には柄のところに「元禄十六年亥の歳、九月」とか書いてあります。九月の祭だったのかな、それとも鉾を九月に作って、翌三月に祭を始めたのかな、と次郎左衛門さんも推理をめぐらせていました。

 この古い鉾には「広瀬次郎左衛門」と、もう一人の名前が書かれています。古い鉾は今でも次郎左衛門さんのところで保存しています。市の教育委員会に保存を頼もうとしたら、習志野市にはそう言う場所がまだないので、もうしばらくお宅で持っていてくれと頼まれたそうです。ぜひ、見てみたいですね。

 なお、この次郎左衛門さんの家には八剱神社をたてたときの大工の棟梁との契約書のようなものも、出てきたとおっしゃっていました。これについては「参考文献」の頁でご紹介します。

 今回、鷺沼の八剱神社剣の祭について、次郎左衛門さんをはじめ鷺沼の方々からいろいろ体験に基づくお話を伺うことが出来ました。「自分が覚えているのは戦後のことだけ。もっと年寄りなら戦前のことも覚えているだろうが。早くしないとみんな判らなくなるな」と言われました。八剱神社の秋の祭、2月のオビシャについてもお尋ねしてみたいし、はじめの方に紹介した、この地域の古峯講のことも興味があります。他にも無縁講と呼ばれる連絡網や、天道念仏という般若心経を勉強する老人クラブがあったそうです。嫁の悪口を言う会でもあるし、出かけてくれると嫁が息がつける会でもありました、と小耳に挟むと、ますます興味がわいてきます。

 「鷺沼弁も年寄りならしゃべれるが。直に聞いていないと、本に書いてあるだけじゃ判らないよ。前に図書館で見たが、疲れたときに『こうぇー』というが、文字だと『こわい』になっている。感じがすっかり違う。そう言うのも聞いて回るといいよ。」とアドバイスも頂きました。この鷺沼弁については保存会もあるそうなので、機会をみつけてお話を伺ってみたいと思います。

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参考文献

『習志野市史 第一巻 通史編』 p550.

H7.3.30発行
編集者 習志野市教育委員会
発行者 習志野市役所 市長荒木勇
下記章の執筆担当 高見澤美紀(國學院大學大学院)

第3編近世  第八章庶民の信仰と文化  第二節近世の神社
八剱神社
 鷺沼村の根神社の末社で祭神は日本武〔やまとたける〕尊。創建年次は不詳だが、もとは久々田村の神でもあり、延宝6年(1678)に同村と出入りになったとき久々田村にも八剱神社を創建したというから、江戸時代前期の創建か。嘉永元年に拝殿の屋根の葺き替えをし、同5年には下宿の若者によって狛犬が造立された。狛犬の造立者から見ると、同じ鷺沼村でも根神社は上宿と本郷の神、八剱神社は下宿の神といった意識をもっていたようである。神主は根神社の村山氏が兼務しているが、それまで小祠だったのを、文化13年(1816))に広瀬次郎左衛門が中心となって間口五尺奥行五尺の本殿を建立した功績により、以後子孫が社守として管理するようになった。なお、このときの大工棟梁は印旛郡神々廻村(現白井町)の笹井杢之允藤原胤則であった。

根神社
 鷺沼の産土神で、祭神は面足〔おもだる〕命・惶根〔かしこね〕命・素戔嗚〔すさのお〕尊の三神。創建年次は不詳だが、一説には承平年間(931〜37)の鎮座といわれるから、平安時代中期の創建か。享保17年(1732)に本殿が再建され、安政5年(1858)には拝殿が再建されている。嘉永4年(1851)に上宿・本郷の若者によって狛犬が造立された。同5年のオビシャには25軒が参加している。神主は村山氏の世襲で、文政5年(1822)に当時の神主である村山蔀が、吉田家に金200疋を献上して末社の稲荷神社に正一位の号をもらっている。明治初期の本殿の規模は間口一間・奥行一間。


『習志野市史 第三巻 史料編(U)』 p624.

H7.3.30発行
編集者 習志野市教育委員会
発行者 習志野市役所 市長荒木勇

五 宗教  村の信仰

[312]嘉永5年11月鷺沼村八剱神社社守相続につき一札(状)
(本文省略)
(鷺沼・広瀬博也家文書)


『習志野−その今と昔』p85.

H2.6 初版発行
編集  習志野市教育委員会
監修  大谷貞夫(國學院大學教授)

第六章 資料  2 古社と祭礼.

 八剱神社(鷺沼3−16)の創建は不明です。・素戔嗚命・日本武尊を祀っています。例祭は3月1日と10月17日に行われます。

「剣」という祭礼
 八剱神社では、毎年3月1日に「剣」という珍しい祭りが行われています。
 鷺沼村の宿に氏子たちが集まり、天狗の面をかぶり、御榊を持った人を先頭に、身を清めた白装束の八人の若者が、長さ2メートルほどの剣をそれぞれ持って、鷺沼中をねり歩きます。神社で神主に祝詞をあげてもらってから、太鼓を前触れに、氏子の家々を土足のまま入り込み、家の中の悪霊を追い払って回り、村境で辻切りをします。村や家々の一年間の疫病退散・無病息災を祈願するものです。
 *辻切り  村の中に悪霊や病魔が入ってこないように村の入口で厄除けをすること。
 *祝詞   神様にお祈りすることば

 根神社(鷺沼1−8)の創建は不明です。面足〔おもだる〕命・惶根〔かしこね〕命・素戔嗚〔すさのお〕命・猿田彦神を祀っています。地域の産土神であります。通称権現台にあり、10月17日に例祭が行われます。

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